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永井LEE (SEWING MACHINE) lee-no1130@pop21.odn.ne.jp ■1 私の兄はミュージシャンです。九つ上の兄とはマトモに遊んだ記憶もないし、自分が物心つく前に結婚して、音楽で身をたてていく決心をして出ていった、兄からの音楽的影響は今思い返すと実に、断片的なのですが、嫌になっちゃうぐらい大きいのです。小さい頃、兄の部屋は開かずの間で、たまにガキの私が呼ばれるのは「本物の宇宙船鑑ヤマトがきている」とわけの分からないことでバカにされる時だけであった。その兄の部屋からよくロックが聞こえてくる。なぜか覚えているのが"Strawberry Feilds Forever"のメロディーだった。とにかく変な歌だ、どこが頭でどこで終わるんだ、と立ち止まってぼけーッと聞いているとなぜか兄が襖を開けて睨み付けるのだ。やはり恐い思い出に結びついているらしい、私のなかでは。 ■2 中二の時、肺炎で入院していた。入院生活は一ヶ月以上続いたが、別にどうというわけもなく退屈であり、薄暗い小児病棟は自分よりもガキばっかで一緒になって看護婦のおねーさんと遊ぶのも照れくさく(でも遊んでた)、そこに母親が買ってきたのがビートルズの「赤盤」のカセットテープだった。これは擦り切れてしまいましたね。A面最後の"Yesterday"なんかドローンとメロトロンみたいでした。そういえば大学で初めてバンドを組んだ時,"We Can Work It Out"をやったのはこの時からフェイバリットだったこのナンバーが、あの入院時のネクラなときめきが蘇ってくる感じがあったからかも知れない。なぜか児童用の本棚から少女マンガばっか読んでた記憶がある。それにしてもビートルズを兄にすり込んだのもまぎれもなく母であり、兄弟ともども、母の教育が効き過ぎたようです。 ■3 そして私は自分でもレコードを集めるようになり、一人で部屋にこもって聞き漁ることを覚えてしまった。あまり高校生時に友人と音楽話しで盛り上がったという記憶がない。今思うとなんだか寂しいがとにかく独力で自分の音楽世界を広げようとしていた。とにかく家族の影響下から離れ、自己を確立したかった時期だった。プログレのレコード、(特にイエスとジェネシスでしたか)そしてパンク、ニューウェーブ。気弱な自我に芽生えたねじれた反抗心。進学。1991年の春、私は発掘現場のアル バイトに短期で入りました。都立府中病院に程近い、公団住宅をたてるための調査発掘だったと記憶していますが、7〜8年続いていたこの現場は吹きだまりのようなところだった。シルバーセンターの年輩者も多かったがフリーターやら脱サラ組、高校生やらいろんな若者が集まってきていました。仕事はもはや赤土の除去がメインで、ほとんど土方でしたが、よく一緒に組んでスコップを動かしていたのが、京都の大学を中退してきたというFさんでした。地面から1〜2mは掘り下げられた穴部屋で一日中二人でぼけ〜ッと喋クっていましたが、このFさんがまた私に色々と別の価値観で音楽を語ってくれました。エレファントカシマシ、Kinks,Vervet Underground,当時新譜で出たLenny Kravitz,R.E.M,Pabric Enermy,電話口で聞かされたDynasour .Jr,貸してくれた忌野清志朗の伝記本、パラジャーノフとゴダールの映画・・・。大して長い期間ではなかったと思いますが、何か良く分からない別の価値観の存在に惹かれていくようになりました。Fさんは写真の専門学校にかよい始めていましたが、彼の部屋に呼ばれていってみると、その機材類以外目立った物はなくて、小さなスピーカー の前にはCDが10枚ぐらいしかなかった。ほんとに質粗な部屋だった。その後連絡がとれなくなりましたがFさんはどうなさっておられるのでしょうか。 ■4 その年の秋だッたと思いますが、兄が私の誕生日にくれたのがPentangleの"Sweet Child"だったのです。この頃には兄と趣味的に開きが出てくるようになり、例えば王道ポップの大家たるJeff Lynn (今も苦手だ)やTodd Rundgrenが私はどうもダメで、もっと過激な、アナーキーな音楽の方が素敵だと思うようになっていたところにこのアルバムをもらいました。ほんとに長いことかかってこのトラッドフォークの世界にはまっていくことになるのですが、大学ではエスニック、異文化圏の音楽の深淵にぶつかリ、もはや何が自分の趣味で、何がいいとか悪いとかは次第に曖昧になってゆくのでありました。 兄もずいぶん悩んだのかも知れません。真剣に俺に聞かせる音楽を。 ■5 私は自分でもバンドを組んだり音楽活動をするようになるのですが、とにかく自分で曲を作りたかった、別に誰かに聞かせようとは思っていなかったので、なかなか焦点の定まらない活動が続いてしまいました。「俺はロックは向いてねぇな・・・」と思い始めていたのでもう止めようかなとも思ってましたが、「ロックやンなくてもいいじゃン」というふしだらな考えが沸き上がってきたのでした。その頃渋谷の東急Bunkamuraでしたか、ワールドミュージックのフィスティバルがあって、何組かの 異文化圏のアーチストが登場してくれましたが、タンザニアのフクウェ・ザウォーセのステージはキョー列に楽しいものでした。親指ピアノだけでの弾き語りの美しいこと。じゃらじゃらと多様な鈴を体全体踊りながら鳴らし、弦楽器は素朴なアイルランドのフィドルのよう。なんつうか、とにかく生を謳歌した喜びや叫びがそこにはあったのです。「俺にもこんな音楽ができるんだろうか・・・。」こうして私のなかでは広義のFOLK MUSICに対する思いが強まって行ったのです。ロック五つの点、からかなりずれちまいましたが、今の俺はそんななかに居るのです。 あ、なんとかいってロック最高。KINKS命の永井LEEであります。以上です。
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